世の中の人はどれだけ、TVを信じているのでしょうね。
オーラーの泉がやらせではないか?なんて、議論をする人がいます。
そんな人達を見ていると、「すごく純粋だな...、優しいな」と思って
しまいます。
純粋だなって想うポイントは、自分がかかわっていない映像に対して、
真実を見極めようと思う心。
それって子供の純真さそのものじゃないでしょうか。
ここでは真実の定義もあるでしょうね。
彼らは事実を真実と考えている、と思います。
事実とは実際に起こった事と、目に見えるレベルで一致しているかどうか?
でも、人にとって本当に必要なことは、真実だと思います。
ここで言う真実とは、その人の心の中にあった、その人の目に映る、その人の
ファインダーを通してみた出来事。
それが実際に存在していなくても、その人のファインダーに映っている物が
その人の目にあれば、それは真実として捉えます。
もし、幻覚を見た人に遭遇した時、他人には見えなくても、本人には真実として
考えますよね。
「自分には見えないけれど、あなたがあると思うのなら、それを信じてあげる」
そう思う心は大切かも知れません。
本当に見なければいけないことは、心が感じているままの出来ごとですから...。
TVの映像自体が幻覚に近いものだとも考えられます。
同じものを別の場所で、本当に見ているとは限りませんし、確認も出来ないです。
そんな議論をする人は何を信じ、何を心に刻んでいるんでしょう。
騙されたり、人に笑われて心を防御しないといけなくなったんでしょうか?
一つ、事実として分かるのは、猜疑心を持って生きていると疲れます。
心が必要と考えれば、それで必要。
それが現実であるか、どうかはさっして問題にならない、と思ってみれば、ストレスも
消えるんじゃないでしょうか?
私にはこう言う場面で、議論をするほど熱い心を持っていません。
猜疑心って持っているときは分からないけど、無くなると「ストレスだったんだね」って思えます。
肩こりと同じような感じですね。
私はバカボンのパパみたいになろうって思います。
「それで良いのだ」ってね。
同じ概念上で、真偽を論じようとしている人も、同じように見えます。
インターネット上でする議論は、いわば顔も知らない他人とするものです。
電源を切れば切れてしまう世界上で、警鐘をならしている人は、知りもしない
人に対してまで、警告を教えている人に見えます。
現実の世界でどれだけの人が、知らない人にまで警告を与えるんだろう?って考える
と、他人想いでもあります。
しかし、自分が猜疑心で見れば、同じように共鳴し、意見を書き込む人は猜疑心を
持っている人だから、二人が見る世界は猜疑心のフィルターが少し掛かった世界でしょう。
これはインターネットの世界だけじゃなくて、現実でも同じようなことが起こります。
自分の世界は、自分が気付きあげている物です。
気がつかないだけで、無意識・意識を関係なく、意見が合わない人は背を向けるものです。
心地いい場所は、意見の合う者同士で作られている。
ここで言う心地よいは、意見が合うと言う物で、いて楽しい関係とは限りません。
どちらのしろ、真実は心が決めるものであり、心に正直に生きることが人として、楽なこと
じゃないでしょうか...ね。
生きる世界は自分で決める。
真偽も心の中だけで決め、その決定を他人に押し付けない。
自分の心の人権を護りたいと思う想いは、他人も同じように持っている。
だから、他人の意見も同じように尊敬を持って認める。
無意味に人の意見に同意も必要ないし、信じられなければ、それはそれで良いと思います。
誰の心も自由であることを、認めるようにする。
でも、これは身勝手とは違うところが必要です。
自分にとっての不愉快は、相手にとっての不愉快とは限らないので、コミュニケーションをして
必要なボーダーラインは作らないといけませんね。
でも、これって...、とても難しいです。
心許す関係ほど、甘えと自己同化で相手が見えなくなってしまう。
結婚をして数年...、我が夫婦のボーダーラインは見つからず...。ε=(‐ω‐;;)
そのやり取りを通してやっと、他人の意見と自分の見ている景色の違いを、身にしみて分かるように
なりました。
相手のファインダーを通して見るようになってから、世界は少しだけ広がりました。(=^_^=)
そして、二人でお互いに対して、バカボンのパパになろうと思っています。
猜疑心が強いと、本官さんみたいに銃をぶっ放し続けて、疲れそうなんですもん。
実際、本官さんは疑うと、乱射しますけど...。
でも、松平謙さんの扮するレレのおじさんは、私の真実とは離れていました。(ノД`)・゜・。
「もう、......レレレのレオパレスって言わないで~」って思います。
どちらかと言うと、私の心のレレのおじさんは、温水 洋一さんに近いです。
オーラーの泉がやらせではないか?なんて、議論をする人がいます。
そんな人達を見ていると、「すごく純粋だな...、優しいな」と思って
しまいます。
純粋だなって想うポイントは、自分がかかわっていない映像に対して、
真実を見極めようと思う心。
それって子供の純真さそのものじゃないでしょうか。
ここでは真実の定義もあるでしょうね。
彼らは事実を真実と考えている、と思います。
事実とは実際に起こった事と、目に見えるレベルで一致しているかどうか?
でも、人にとって本当に必要なことは、真実だと思います。
ここで言う真実とは、その人の心の中にあった、その人の目に映る、その人の
ファインダーを通してみた出来事。
それが実際に存在していなくても、その人のファインダーに映っている物が
その人の目にあれば、それは真実として捉えます。
もし、幻覚を見た人に遭遇した時、他人には見えなくても、本人には真実として
考えますよね。
「自分には見えないけれど、あなたがあると思うのなら、それを信じてあげる」
そう思う心は大切かも知れません。
本当に見なければいけないことは、心が感じているままの出来ごとですから...。
TVの映像自体が幻覚に近いものだとも考えられます。
同じものを別の場所で、本当に見ているとは限りませんし、確認も出来ないです。
そんな議論をする人は何を信じ、何を心に刻んでいるんでしょう。
騙されたり、人に笑われて心を防御しないといけなくなったんでしょうか?
一つ、事実として分かるのは、猜疑心を持って生きていると疲れます。
心が必要と考えれば、それで必要。
それが現実であるか、どうかはさっして問題にならない、と思ってみれば、ストレスも
消えるんじゃないでしょうか?
私にはこう言う場面で、議論をするほど熱い心を持っていません。
猜疑心って持っているときは分からないけど、無くなると「ストレスだったんだね」って思えます。
肩こりと同じような感じですね。
私はバカボンのパパみたいになろうって思います。
「それで良いのだ」ってね。
同じ概念上で、真偽を論じようとしている人も、同じように見えます。
インターネット上でする議論は、いわば顔も知らない他人とするものです。
電源を切れば切れてしまう世界上で、警鐘をならしている人は、知りもしない
人に対してまで、警告を教えている人に見えます。
現実の世界でどれだけの人が、知らない人にまで警告を与えるんだろう?って考える
と、他人想いでもあります。
しかし、自分が猜疑心で見れば、同じように共鳴し、意見を書き込む人は猜疑心を
持っている人だから、二人が見る世界は猜疑心のフィルターが少し掛かった世界でしょう。
これはインターネットの世界だけじゃなくて、現実でも同じようなことが起こります。
自分の世界は、自分が気付きあげている物です。
気がつかないだけで、無意識・意識を関係なく、意見が合わない人は背を向けるものです。
心地いい場所は、意見の合う者同士で作られている。
ここで言う心地よいは、意見が合うと言う物で、いて楽しい関係とは限りません。
どちらのしろ、真実は心が決めるものであり、心に正直に生きることが人として、楽なこと
じゃないでしょうか...ね。
生きる世界は自分で決める。
真偽も心の中だけで決め、その決定を他人に押し付けない。
自分の心の人権を護りたいと思う想いは、他人も同じように持っている。
だから、他人の意見も同じように尊敬を持って認める。
無意味に人の意見に同意も必要ないし、信じられなければ、それはそれで良いと思います。
誰の心も自由であることを、認めるようにする。
でも、これは身勝手とは違うところが必要です。
自分にとっての不愉快は、相手にとっての不愉快とは限らないので、コミュニケーションをして
必要なボーダーラインは作らないといけませんね。
でも、これって...、とても難しいです。
心許す関係ほど、甘えと自己同化で相手が見えなくなってしまう。
結婚をして数年...、我が夫婦のボーダーラインは見つからず...。ε=(‐ω‐;;)
そのやり取りを通してやっと、他人の意見と自分の見ている景色の違いを、身にしみて分かるように
なりました。
相手のファインダーを通して見るようになってから、世界は少しだけ広がりました。(=^_^=)
そして、二人でお互いに対して、バカボンのパパになろうと思っています。
猜疑心が強いと、本官さんみたいに銃をぶっ放し続けて、疲れそうなんですもん。
実際、本官さんは疑うと、乱射しますけど...。
でも、松平謙さんの扮するレレのおじさんは、私の真実とは離れていました。(ノД`)・゜・。
「もう、......レレレのレオパレスって言わないで~」って思います。
どちらかと言うと、私の心のレレのおじさんは、温水 洋一さんに近いです。
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